言葉の矢

今日は、いま。

わたしが積極的に取り組んでいることを

シェアしますね。

 

もしかしたら、重い話かもしれないので

ん?と思われた方は、スルーしてください。

 

8月に、レッスンをしていただいている先生の教室の

発表会がありました。

 

以前に比べると、自分で考えて曲を仕上げるようになったり

(先生の言う通りに演奏することしかしなかったので

自分で仕上げると言うことができなかったの)

音の完成度を人に委ねたりすることが減りました。

 

でもね、今回は一番触れたくないところと

向き合わざるを得なくなるほど、

しんどいことが次々と起きました。

 

わたしは、共感力が高すぎるため

人のことを自分ごとのように捉えてしまいます。

 

実はこれ、無意識でやっているので

いままで気づかなかったのです。

 

でも、人の演奏を聴くだけで苦しくなることが多く

自宅に戻っても、感情をコントロール出来なくなり

パニック状態になりました。

 

その時に、先生からアドバイスをいただきました。

それは、プライベートなことなので

ここでは書きませんが、わたしには思い当たることが

たくさんありました。

 

すると、そのことをきっかけに

いままでの自分が、自分を守ってこなかったことに

気づきとても怖くなりました。

 

そのことに気づくと、あらゆる言葉の矢が

わたしに刺さっていることに気づきました。

 

と同時に、わたしは人から言われた言葉。

両親や、友達、仕事仲間、恩師、ピアノの先生仲間。

ありとあらゆる、わたしと時間を共有し

言われた言葉が全てで、嫌な気持ちになったり、

傷ついたり、悲しくなったり、苦しかったり、

というわたしにとってのネガティブな言葉を

跳ね除けるパワーがありませんでした。

 

というか、跳ね除けちゃいけないと

思っていたように感じます。

 

ピアノが弾けなくなったのも

きっかけは、短大時代の恩師の言葉。

「ピアノの先生なんて、儲からないんだから

さっさと結婚して、旦那に食わせてもらった方がいいんだ!」

口の悪い教授でした。誰にでも「バカ!」と言ってました。

教授は、愛情を持って

発していた言葉かもしれませんが、

何気ない言葉が、人を奈落の底まで落とすということを

知っていて欲しかったと思います。

 

確実に傷ついたはずなのに、それが正しいと思った自分。

反論もしなかったのを覚えています。

 

こういう小さな言葉の積み重ねが、傷になり

身動きできなくなってしまったのだと思いました。

 

でも、変わりたいと思ったのです。

ピアノが弾けるようになりたいと、

ピアノを教えたいと思ったのです。

 

だからこその、いまです。

いっぺんに変わることはできなくて

自分に刺さっている見えない言葉の矢を

日々見つけて、抜く作業をがんばってます!

 

だからこそ、わたしのレッスンでは

言葉の目線に、細心の注意をはらって行います。

わたしと同じ想いをして欲しくないから。

 

 

先日観た「ミステリーと言う勿れ」の整くんの言葉。

わたしの宝物になりました。

 

こどもの感情は、固まる前のセメントと同じ。

どんなことが傷になって、一生残るかわからない。

だから大人は何を言っても言い訳ではない。

 

あなたは、どう感じましたか?

よかったら、教えてくださいね。

 

今日もありがとう。